2005.07.26

さようなら、岡八郎さん

岡八朗さん死去が67歳、肺炎で  【ZAKZAK】

喜劇俳優・岡八朗さんがなくなられた。東京をはじめ他の地方では、あまり馴染みがないかもしれないが、私のように、大阪で生まれ、70年代、80年代を大阪で過ごした者にとっては忘れられない存在だ。

土曜の昼下がり、学校から帰ってご飯を食べてテレビをつけると、いつも吉本新喜劇の劇場中継が放送されていた。大人たちは、藤山寛美ひきいる松竹新喜劇の人情喜劇の方がお好みだったかもしれないが、子どもにとっては、新喜劇といえば吉本だった。 いつもお決まりのドタバタ喜劇。 舞台の中央には、いつも奥目の八ちゃんが居た。

マンネリと言われようが、どういわれようがお約束のギャグは外せない。ギャグは子どもたちの間の共通言語だった。

同じ時期、夜にはお化け番組といわれた「8時だヨ!全員集合」があった。もちろん、全員集合も面白かったけど、加藤茶が「♪セブン~イレブン~いい気分~」と歌っても大阪の子どもたちには、チッとも笑えなかった(当時、大阪にはセブン・イレブンはなく、当然TV-CMも放送されていない)。

その点、吉本の、奥目の八ちゃんの身体をはったギャグは無条件に面白かった。

80年代後半にはいり、岡八郎さんは新喜劇の舞台から去ることになるが、その時すでに私の方が大阪を離れていた。たまに帰省して、たまたま新喜劇の放送を目にしても、舞台は若手にとって代わられていて、そこに岡さんをはじめとする、馴染みの役者さんが居ない。なんだか、自分にとっても“大阪”がひとつ消えたようで、寂しさを覚えたものだ。

そして数年前、ドキュメンタリ番組で、久しぶりのそのお姿を拝見した。ドキュメンタリ番組で取り上げられる対象となってしまっていることも驚きだったが、その姿のあまりの変わりようは、正直なところショックだった。

しかし、それ以来、数々のトラブルを乗り越えられて、一歩ずつ一歩ずつ復活されているものと思っていたのに…。

私の記憶の中では、いつまでも、新喜劇の座長です。

ご冥福をお祈りします。

 ※芸名を「八朗」に改名されたとのことですが、私の思い出の中の岡さんは「八郎」なので、記事タイトルや文中では、「八郎」と表記させていただきました。

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2005.03.13

懐70's:ホワイト・デー

明日、3月14日はホワイト・デー。 いろんなお店で、ホワイト・デー用のプレゼントを販売している。すっかり年中行事として定着したホワイト・デーだが、すくなくとも私が記憶する限りでは、この習慣がはじまったのも、1970年代のことだった。

私の記憶では、バレンタイン・デーのチョコ(や、プレゼント)のお返しをする日というのが、言われ始めたのは、1970年代後半の頃のことのように思う。

当時は、日付も定まっておらず、今のようにバレンタイ・デーの一ヵ月後の3月14日という説(?)もあれば、一週間後の2月21日という説もあった。少なくとも、私がはじめて聞いたのは、一週間後という方だったように思う。今よりずっと早く、お返しをしないといけなかったのだ。

また、お返しのプレゼントも、マシュマロだとかキャンディだとクッキーだとか諸説があって、この日の名前自体も、最初はマシュマロ・デーなんて呼ばれ方をしていたように思う。

その翌年ぐらいには、チョコ(=女性からの意思表示)に対する回答のYes/Noによって、贈り物を変えるという話もあった。すなわち、男の方も相手の女の子が気に入っていれば、マシュマロを、ゴメンナサイだったらキャンディを贈るということだ(実際に、何を贈ることになっていたかは、すっかり忘れたので、今のは例です)。

結局、数年してい、シンプルに一ヵ月後にお返しをするということで落ち着いたみたいです(男の方が、プレゼントを使い分けるなんて、そんなややこしいこと覚えられるわけがない(笑))。

ホワイト・デーの定着は、高度経済成長のガムシャラ、モーレツから、徐々に余裕が出始めた時代に、うまくはまったということなのかもしれません。

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2005.03.08

懐70's:白黒テレビ

テレビは、地上波デジタルへの切り替えが進む一方で、NHKの受信契約では、まだ1%程度の世帯が白黒テレビとして契約しているという。本当にいまでも白黒テレビが現役なのかは疑わしいところもあるが、これが35年前の1970年ころならば、まだまだ白黒テレビも現役だった。

テレビのカラー放送は1960年から始まり、1964年の東京オリンピックでカラーテレビ普及に弾みがついたと言われているが、1970年ころでもまだ放送は完全カラー化されておらず、番組によっては白黒のままだった。当時放送され、いまでも人気のある、アニメ(当時は、テレビ漫画という言い方の方が一般的だったかもしれない)「8マン」や「鉄人28号」は白黒だった。

NHKが全時間カラー化されたのは、1971年のことだという。

放送がそんな状態だし、カラーテレビの価格も高かったので、白黒テレビもまだ一般的だった。また、いまのテレビと違い、チャンネルが回転式なのは当然として、垂直同期や水平同期といった調整つまみ(ボリューム)がついており、調整がうまくいかないと画面が斜めにゆがんだり、スクロールアップしたりしたものだ。最近のテレビでは、こうした調整つまみが見当たらないのはデジタル化によって、同期ずれが起きなくなったからだろうか?

カラーテレビにしても、色合いや色の濃さを調整するつまみがあり、これも上手く調整しておかないと、妙に赤っぽかったり、色がギラギラした映像になってしまったものだ。

そうこういううちに、「昔は、テレビはブラウン管という真空管に画面が映る構造で…」という解説が必要になる日も近そうだ。

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2005.03.06

懐70's:石炭ストーブ

3月だというのに急に冷え込んで、普段あまり雪が降らないところに雪が降っているようです。しまいかけたストーブに、もうひと働きしてもらわないといけないようです。といいつつ、一般家庭でもエアコンや、ファンヒーターが普及してストーブの利用は減りつつあるのではないでしょうか?

しかし、いまから35年前の1970年ころは暖房といえばストーブで、しかも学校の教室では石炭ストーブ(だるまストーブ)がまだ現役でした。

このシリーズの前回、「木造校舎」の記事でも触れたように、当時、私が通っていたのは大阪市内にある小学校でしたが、少なくとも1年生の冬は教室に石炭ストーブがありました。

各教室に1つずつ、教卓の横にでーんと置かれていて、煙突は窓から外へ出していました。教室の窓には一箇所だけガラスではなく、ブリキ板が嵌っている場所があって、そこから煙突を外に出せるようになっていたのです。

燃料の石炭は、当番(日直)が朝一番に、校舎の隅にある石炭置き場に取りに行くことになっていました。そこには、各クラスの番号(1-1とか、1-2とか)が書かれた「バケツをひしゃげたような入れ物」に石炭と炊きつけの薪が入れて置かれてました。おそらく毎朝、用務員のオジサンがセットしてくれていたのでしょう。

ただなにぶん昔の話なので、詳しいことが思い出せません。大阪はそんなに寒くないですから、使う期間も短かったのかもしれませんね。


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2004.10.08

懐70's:木造校舎

過去3回、1970年代に姿を消した(バキュームカーは、まだ地方によっては現役だろうが)乗り物にスポットを当てて来たが、目を建物に転じると、「木造校舎」というのがこの例に当て嵌まるものの一つだろう。

私は大阪出身で、大阪市内中心部からそう遠くない地域に住んでいた。通っていた小学校は徒歩10分程度の市立小学校だが、この学校には1970年代でも、一つだけ木造の校舎が残っていた。

周辺部の比較的新しい小学校と違い、その当時すでに100周年に近い伝統のある学校だったので、余計に古い建物が残っていたのかもしれない。

当時、児童の数が減り始めていたこともあって、その2階建ての木造校舎は、なかば倉庫のような使われ方をしていた。木造の雰囲気といい、普段、ひとがいないことといい、子供達の間では、格好の“学校の怪談”の舞台となっていた。いまとなっては、そんなこともいい思い出だ。

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2004.10.07

懐70's:バキュームカー

トロリーバス三輪トラックと、1970年頃を境に姿を消した車を挙げてきたが、もう一つ毛色の違ったところでは、バキュームカーもそうかもしれない。汲み取り式トイレのし尿を回収する、あのバキュームカーのことです。

日本全体をみれば、まだまだ現役活躍している地域もあるのでしょうが、都市部では、いまではまず姿を見ることはありません。1970年頃には、まだ、都市部でもチラホラと汲み取り式トイレが残っており、たまに街で出くわしたりしましたが、高度経済成長と共に、いっきに直接放流式の水洗トイレが普及しました。

嘉門達夫のネタに、「あったら怖い、透明なバキームカー」というのがあったが、今の子供は、そもそもバキュームカーを見たことがないんじゃないだろうか?

ところで、ちょっと調べてみたところ、いま私が暮らす横浜市の下水道普及率は、99.6%だとか。

0.4%というと、「ほとんど0」との印象ですが、横浜市の人口3,532,691人を掛けると、14,130人の方はまだ下水を利用できていないということになります。こうみると、案外多いものですね。

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2004.10.06

懐70's:三輪トラック

姿を消した(見かけなくなった)乗り物といえば、もう一つ三輪トラックもすっかり見かけなった。トロリーバスが姿を消した公共交通の代表なら、三輪トラックは、民間車輌の代表といえるだろうか。

これも全く知らないという若い人向けに簡単に解説すると、三輪トラックとは見かけは、普通の(小さめの)トラックながら前輪が一つしかないというもの。前輪はバイクの前輪のように、サスペンションで支えられ、泥避けがついている。

百聞は一見にしかず、以下のサイトで当時のパンフの内容を見ることができます。

カタログで見る昭和30年代の車-ダイハツ・三輪

どことなく愛嬌のある“風貌”をしていて憎めない感じがしました。

今回、Googleで「三輪トラック」を検索してみたら、随分沢山のサイトがヒットしました。それだけ皆、郷愁を感じる車ということなのでしょう。

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2004.10.05

懐70's:トロリーバス

「動く歩道」は、70年頃を境に全国に普及していった“乗り物”だが、今にして思えば、この1970年頃は、交通機関の世代交代の時期だったようだ。

市電や蒸気機関車といった乗り物が、1970年頃を境に、第一線から姿を消していった。なかでもトロリーバスは、壊滅的といっていいほどだろう。

知らない人のために説明しておくと、トロリーバスというのは、バスと市電の合いの子のような存在で、全体の姿やタイヤで道路を走るところはバス、しかしモーターで市電のように道路上に張り巡らされた架線からポールを使って収電して走っていた。

架線が街の景観上よくなかったり、架線があると大型車輌が通行できなかったり、あるいは架線の下しか走れないため、停留所を市電のように道路の中央に作る必要があったり等々、廃止に至るには色んな不都合があったのだろうけど、電気で走るという点だけをみれば、エコロジーの面で見直されていい乗り物なのかもしれない。

参考リンク:
市営交通100周年のあゆみ(大阪市交通局)

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2004.10.03

懐70's:大阪万博・動く歩道

大阪万博は、パビリオンだけでなく会場全体が“未来”に満ちていた。私自身は乗る機会が無かったが、会場内には、乗り合いの電気自動車が走っていて、広い会場内の移動に利用されていた。今にして思えば、ゴルフ場のカードみたいなものだが、当時は電気自動車というだけで新しかった。

同様に目を引く乗り物(?)が、「動く歩道」だった。いまでは、空港内やこのblogで写真テーマに取り上げている横浜ランドマークタワーへのアプローチなど、都会のあちこちに設置されていて、きわめて日常的なものになっているが、当時日本初だったかどうかはよく知らないが、少なくとも世間に広く知られるキッカケとなったのが、この大阪万博だった。

もちろん、1970年当時も、エスカレーターはデパートなどにあって当たり前の存在だったので、それを水平に伸ばしたような動く歩道は、画期的に新しいと感じさせるものではない筈なんだけれど、初めて乗る時は、わくわくしたものだ。そこには、確かに、鉄腕アトムなどに描かれている“未来”の姿があった。

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2004.10.01

懐70's:大阪万博・アメリカ館

大阪万博には、その名の通り、世界各国がそれぞれに趣向を凝らしたパビリオンを出していたけれど、展示物の目玉といえば、なんといってもアメリカ館の「月の石」だろう。 万博前年の1969年、アメリカ・アポロ計画はついに人類を月に送ることに成功。その成果としてもたらされたのが、この月の石だった。

アメリカ館は随分と面積の広いパビリオンだったが、それを取り囲むように入場待ちの人が並んでいた。何時間もかけて並んで、やっと目にした月の石は、拳骨くらいの大きさで、3本くらいの立て爪状の支柱に乗っていたように記憶している。遠目ということもあり、月の石ったって、見た目は普通の石だった。

後年(1984年頃?)、大阪難波の高島屋で開催された宇宙展(?)のようなイベントでは、小さくスライスした状態の標本ではあったけど、その月の石に直接触ることができた。オマケに月の石に触ったという証明書(といっても、チャチなカード)までくれた。 それでも、観客はまばらで、万博の頃の熱狂はどこへやら・・・という感じだった。

このアメリカ館、当時を知っているひとには説明するまでもないと思うが、いまの東京ドームのような構造をした建物で、館内に柱はなく、気圧差で膜状の天井を支えていた。入り口の回転ドアをくぐると、耳が少しツーンとしたことを覚えている。いまの東京ドームより圧力が高かったのかもしれない。

※例によって、例のごとく記憶を頼りに書いてますので、間違ってたら、ゴメンなさい。

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2004.09.30

懐70's:大阪万博・サンヨー館

まだまだ続く、大阪万博の思い出話。次は、サンヨー館。

万博のパビリオンでは、ピン・バッチなどの記念品を配っていることがあった。中高生くらになると、それらを収集するという趣味もあったかと思うが、当時まだ小学生で、親に連れられてでしか会場に足を運ぶことの出来なかった私には無理な話だった。

そんな中、唯一、バッチをもらったのがこのサンヨー館。このバビリオンは、鯉のぼりがシンボルになっており、バッチも鯉のぼりをデザインしたものだった(あのバッチ、どこに行ったのかなぁ・・・)。

で、このサンヨー館の展示物の目玉(か、どうかはともかく、私の記憶に残っているの)は、「人間洗濯機」。

透明な素材(アクリル?)で出来た卵型の浴槽で、中に人間が浸かると、水流で身体を自動的に洗ってくれるというもの。洗浄効果を高めるため(水流を見易くするため?)、色とりどりのスポンジボールみたいなのが入れられていた。

周囲から見易くするためか、機械装置を収納するためか、浴槽は台状の足の上に設置されていて、水着姿のお姉さんが、その中に使って実演して見せてくれていた。子供心にも、水着のお姉さんがまぶしかった(笑)。

今にして思えば、ジャグジーみたいなものだし、34年たった今も、当然のように実用化されていない。

モーターショウなどで「コンセプトカー」として、とても実用化されなさそうな車が展示されていたりするが、これはいわば家電メーカーとしてのコンセプト家電といったところだったのだろうか?

※例によって、記憶を頼りに書いていますので、間違ってたらゴメンなさい。

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2004.09.29

懐70's:大阪万博・日本館

調子に乗って、「◆懐かしの70年代」なんてカテゴリを作ってしまったので、大阪万博の思い出をもう一つ。

日本政府が出展した「日本館」は、大阪万博のシンボルマークを象ったような、白亜の5つの丸い建物からなっていた。おそらく中には、日本の伝統文化なども含めて、様々な展示がされていたのだろうが、残念ながらほとんど記憶がない。子供心の唯一印象に残っているのは、リニアモーターカーの模型だった。

東海道新幹線開業からわずか6年、すでに次世代の超高速列車について語られていたのだ。

と言えば格好いいのだが、その模型は意外な位、ショボかった。リニアモーターカーの外見的な特徴はなんといっても、数センチ浮いて走る車輪のない構造だが、その模型は、なんてこたぁない透明アクリル性のレールの上を走る跨座型モノレールみたいなものだった。

当時まだ幼かった私だが、それでもリニアモーターカー=浮いて走るということは知っていたので、どんな模型なんだろう期待に胸ふくらませていたのだが、それが見事に裏切られガックリきた。

あれから34年。技術としては、かなり固まっているのだろうが、未だに東京-大阪間といった距離での実用路線のメドはたっていない。技術だけでは、夢が形にならない典型かもしれない。

※34年前の記憶をもとに書いています。間違っていたらごめんなさい。

補足
その1:リニアモーターカー=浮上というのは、本当は正確ではない。
     都営地下鉄・大江戸線や、大阪市営地下鉄・長堀鶴見緑地線はリニアモーターカーです。
その2:日本では恒久的な実用路線はまだですが、上海では、浮上式リニアモーターカーが走っています。
その3:日本でも、つくば博(科学博)で、浮上式が運行していました。
その4:来年春の愛知万博で、国内初の浮上式が実用化されるそうです。
    (2005年3月6日開業

というわけで、日本の浮上式リニアは、なぜか博覧会と縁があるようです。

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2004.09.28

懐70's:大阪万博・古河グループ館

日立パビリオンの近くに、七重の塔を模したパビリオンがあった。その名は古河グループ館。最近の博覧会では名前を聞かないが、古河グループ(旧・古河財閥)が出展しているパビリオンで、いまならさしずめ、富士通館というところだろうか? 1970年当時は、総合電機メーカーの日立などは除いて、国産のコンピューターメーカーというのは、まだまだ小さく、たしかNECも単独でのパビリオンはもってなかった(住友館に参加していたのだろうか?)。

その古河パビリオンの展示物の一つに、ロボットによるボールの選別というのがあった。ロボットといっても人型のヒューマノイドではない。今にして思えば、あれは、自動車組み立てラインに並んでいるアーク溶接ロボットか何かのだったのだろう。大きな腕の先にボールを挟む爪のようなものがついていたように思う。

その爪で、スロープを転がり所定の位置にとまったボールを挟み、白ならこっち、黒ならあっちと色に寄って振る分けるというデモンストレーションだった。

コンパニオンのお姉さんの解説によると、実は、これは色を識別しているのではなく、黒の方が数ミリ大きいのを爪の挟み具合のセンサーで関知しているとのこと。碁石と同じで、人間の目では白が大きく見えることを利用して見た目は同じ、でも、ロボットには判るという仕組みだったのだ。古河館でロボットの展示となれば、おそらくは、今のファナックが担当していた展示物なのだろう。

これも今となっては、わざわざ博覧会で展示するほどの内容ではない。でも、当時は最先端に近かったのだろう。

こうして書くと、あまり面白い展示物ではないように思えるが、子供の頃に一度見ただけのことを34年経ったいまも覚えているのだから、子供心にも、それなりのインパクトがあったということだろう。

それから34年。鉄腕アトムこそ誕生していないものの、2足歩行のヒューマノイドがさして珍しくなくなってきている。
技術は確実に身近なものに進化している。

※記憶を頼りに書いていますので、誤りがあるかもしれません。 その点はご容赦ください。

※ちなみに、ニフティ社長の古河さんは、この古河グループの“古河さん”です。

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2004.09.27

懐70's:34年前の技術

「太陽の塔」を懐かしむついで、大阪万博のほかのことも思い出した。

この34年、目まぐるしいようでいて、でも、日々の生活はほとんど変わりがないので、時の流れを実感するのが難しいときがある。でも、立ち止まって昔のことを思い出せば今とはぜんぜん違っていたなぁと、時代の進歩・技術の進歩に改めて驚かされる。

たとえば、Expo'70大阪万博での人気パビリオンの一つに、(確か)日立館というオレンジ色のUFOの様な形をしたものがあった。このパビリオンでの人気展示物は、今で言うところの「フライト・シミュレーター」。館内に十数個のコクピットが用意されており、それぞれ何秒間かずつ制御権が与えられるようになっていた(みんなで、一つの飛行機を操縦するような感じ)。

いまではゲームセンターに行けば普通にあるようなものが、当時は最先端の展示物だったのだ。

操縦を終えて、次のフロアに移ると、そこに装置に仕組みが説明がある。実はこの装置、ミニチュアセットの上に、多自由度のクレーンに吊るされた小型カメラが移動するようになっており、操縦桿の動きに連動してカメラが動くようになっている。シミュレータの前方スクリーンに映っていたのは、このカメラが撮影したミニチュアの街の映像だったのだ。

いまなら、当然のようにCGで作るところだが、34年前の計算機ではとてもじゃないけどCGなんて無理。こうしたアナログな技術が生きていた。

ついでに、もう一つ。このパビリオンのエレベータは2階建てになっていた。それ以来、2階建てエレベータなんてすっかり忘れていたが、なんと、六本木ヒルズのエレベータで見事、実用化されていた(しかも、階の高さ調整機能付に進化して)。

※34年前の記憶を頼りに書いているので、間違っているかもしれません。その点はご容赦ください。

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懐70's:34年前の太陽の塔を懐かしむ

去る9月25日、34年ぶりに大阪・万博公園の太陽の塔の目が光った。

太陽の塔が光のエール -愛知万博半年前イベント-」 【中日新聞】

全国紙はもとより、愛知万博にも34年前の大阪万博にも関係のない東北の新聞にまで取り上げられていた。
34年ぶり太陽の塔点灯 愛知万博マスコットも」 【河北新報】

写真をみて、「あぁそうだぁ、太陽の塔って目が光っていたんだぁ」と改めて懐かしく思った。今から思えば信じられないかもしれないが、地元大阪で、当時小学生だった私たちの世代にとって、太陽の塔は一種のアイドル(?)だった。インパクトのある姿、それでいて、子供でも簡単に絵に描ける形。よく口を横に曲げ、鼻の頭も指で押さえて「太陽の塔の顔」というモノマネをやったっけ。

「パビリオン」や「コンパニオン」という言葉も目新しく新鮮だった。いまでは、コンパニオンというと単なるお酒の相手してくれるおネェちゃんだもんなぁ(笑)。 ずいぶん、歳をとったものだ(苦笑)。

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